1993年10月16日。
この日は私にとって、特別の日だ。
20代最後の年を迎えた私は、世の中のことをよく知らないまま、大きな決意を持って聖心美容外科を福岡の地に開設した。そして無謀とも思えるその壮大な夢を実現した。
干支が一周して2004年11月、30代最後の年を迎えた私は、この愛した組織を手放すことになった。そして、現在のような新しいステージを迎えることになった。当時とは世の中の景色が違って見える。
仕事を通じて今まで出会った多くの人たちに、今はただ感謝したい。
はじめに
29歳で創業したころは、どれくらいのレベルで始めたのか、今振り返ると恐ろしくもあり、いとおしくもある。
知識も経験も明らかに平均以下だ。
勤務医時代は、医学しか勉強していなかったので、まったくといっていいほど社会性がない。
事務の女性に言われて、「源泉徴収ってなんですか?」と聞き返したくらいだ。
しかし、夢を見る力と行動力には自信があった。
そのギャップをどう埋めていったのか。
最近、若手経営者に相談されることも多くなってきたので、
原点に返って連載してみたい。
これから起業を目指す人にとっても、会社を大きくしようと考えている人にとっても、勇気を与える内容になると思う。
マイナスからのスタート
そのころの私(1993年)は、その当時最大手だった美容外科で勤務医として働く28歳の青年だった。
若干の頑張りを評価されて、雇われながら院長として福岡に赴任していた。
節税対策が必要と、D京の営業マンに勧められるまま、9割のローンでマンションを購入し、ノンバンクから6.6%の高利で融資の返済をしていた。
貯金は450万円。
借金の残高は4500万円くらいあった。
開業を決めたのは、その年の5月、急速に勢力を伸ばしてきた、業界2位のクリニックチェーンの院長から引き抜きのお誘いを受けた時だ。
今の給与の1.5倍を出すとの提案で、借金を抱える身としては、多少魅力は感じたものの、マネージメントに興味があった私は、そのような立場での転職でなければ意味がないと思っていた。
6時間にわたる話し合いの結果、先方の院長から「君は自分でやるタイプだね。」と切って捨てられ、結果的にその言葉が決め手となった。
自分の実力を試すには開業しかない。
それまでは、漠然といつか独立したいという夢はもっていたものの、まだ時期が早すぎると思っていたのだ。
決心を決めた私は、次の日から開業の準備を始めた。
まず、所属しているクリニックの総院長にアポイントをとり、東京へ向かった。
独立したい旨を伝えると、
「君は優秀だけど、すごくできるというわけではない。今独立するには状況がよくない。開業しても成功するのは10人に一人だ。」
その言葉でますます成功への確信を深めた。
なぜならその院長は常々、所属しているドクターに、独立しても成功するのは100人に一人だと口癖のように言っていたからだ。
日本一のクリニックチェーンの院長に君の成功率は、ほかのドクターの10倍だとお墨付きをもらったのだ。
恐ろしい、プラス思考である。
今、振り返ると思う。
もし、独立を願う100人の人がいるとしたら、そのうちの90人は同じ理由で成功しない。
なぜなら90人の人は、夢見るだけで実際に実行しないからだ。
ゲームに参加しなければ、勝つことはできない。
事業計画書
さて、勤務医として仕事をしていた福岡で開業を決めたものの、何から手をつけていいかわからない。
地元でもないので知人もほとんどいない。金なし、コネなし、経験なしの3拍子そろっている。
とりあえず異業種交流会に参加して人脈を作ることにする。
最後まで勤務の仕事はやり遂げると決めていたので、週2日の休日を使っての準備だ。
開業の仕方などの本を数冊買ってきて勉強する。
知らない言葉だらけだ。
起業には、事業計画書というのが必要らしい。
ほこりをかぶったワープロを取り出して、本の内容をパクって3枚の事業計画を書いてみる。
完成した。なかなかいい出来だ。
まず、資金が必要だ。
銀行に融資を頼んでみよう。
どうしたらいいかわからないが、とりあえず有名な銀行に行ってみよう。
なにかヒントがあるはずだ。
第一勧銀に計画書を持って訪問。
窓口の女性に、「あの、融資を受けたいんですが。。」と言ってみる。
「当行とお取引はありますか?」
「いえ、これからお取引をしたいのですが??」
「1年以上のお取引のある方しかご融資はできません。」
そういえば、給与振込みで1年以上取引がある銀行がある。
気を取り直して住友銀行に出向く。
ラッキー、融資担当の人が出てきた。
計画書を一瞥すると、
「おもしろい計画ですね。頑張ってください。」
またも融資の道は閉ざされた。
美容外科の世界では、患者を集めるには、広告が必要だ。
電通に出向く。
なんといっても広告代理店の大手は電通だ。
いい仕事をするに違いない。
受付でさんざん待たされた挙句、予算を聞かれた。
「月に300万円はかけようと思っています。」
その後、連絡はなかった。
異業種交流会の主催者にアポイントが取れた。
「それでは今から、西鉄グランドホテルに来てください。コーヒー代がもったいないのでロビーの2Fのソファーで話しましょう。」
彼は、福岡の起業を目指す若手サラリーマンの勉強会を組織し、月1回、成功した経営者のお話を聞く異業種交流会をボランティアで主催している。
後に創業の片腕となり、師匠となる人物だ。
どこの馬の骨ともわからない若者の熱く語る事業計画を熱心に聞いてくれた初めての人物だ。
それだけでもうれしい。
彼が地元の中堅の広告代理店で勤めていることを聞いた。
「是非、仕事を発注させてください。」
「交流会の仲間には、営業をしない方針だ。」
またも道を閉ざされたのか。
数日後、彼の会社のオフィスの応接室にいた。
彼が紹介してくれた広告代理店の人たちは、オレンジ色のポロシャツ姿の若者を怪訝そうに見ている。
クリエーターの人にお願いした。
「まずはCI(コーポレートアイデンティティー)をしたい。洗練されて繊細なイメージのロゴマークを作ってほしい。」
当時、美容外科業界ではCIという概念は普及しておらず、本格的なロゴマークを持っているクリニックはどこにもなかった。
その重要性について得々と語った。数日前勉強した本に書いてあったのだ。例の事業計画の最初に盛り込んである。
素人ながら、説明を通じて、クリエーターのやる気のスイッチが入ったのがわかった。
手持ち資金の450万円のうち、50万円をロゴマークに投入した。
数週間後、紺とベージュでデザインされたロゴマークが完成した。
見た瞬間、震える思いを感じるとともに、またも成功を確信した。
しかし、このロゴマークが、後に数十億円という価値にプライシングされることになろうとは、このとき誰も想像できなかった。
もちろん、世間知らずで、自信満々の本人さえも。
現実と情熱の間
話を進めるにあたって、そのころの私が、いかに世間知らずの起業だったかということについてもう少し触れておく必要があるだろう。
所属するクリニックの院長に、独立の旨を伝えに東京に出向いた私は、その足で渋谷の街へ向かった。
この街はなんとなくエネルギーを与えてくれる。
世の中にはこんなにいっぱいのビジネスがある。
起業を決めた私にとっては見るものすべてが、刺激的だ。
西武百貨店に入ると、すぐに、日本最大手の化粧品会社のロゴが目に入った。
やっぱりかっこいい。
そのロゴにあこがれて、先日なけなしのお金を払って、クリエーターにCIを発注したばかりだ。
次の瞬間、私は、そのショップの販売員に声をかけていた。
何を思ったのだろう。今でもその行動はよくわからない。
「すみません。今度、福岡で美容外科を開業するんですけど、御社と業務提携したいと思いまして。商品開発の担当の人とつないでいただけませんか?」
30分ほど粘ってみた。
隣でメイクを体験している女性客と目があった。
気まずい空気が流れている。
この場が自分にふさわしくないことをほんの少し理解した。
時は流れ、十数年後、上海の美容ビジネスに、その会社の会長から出資の意向を伝えられた。
会社の名前を聞くまで、そんなエピソードはすっかり忘れていた。
現実と情熱の間のギャップを埋めるためには、それくらいの時間は必要だったのかもしれない。
それほど大きなギャップだったのだ。
起業に最も必要なのは、人、金、物などの自分の置かれた状況ではなく、情熱だと言い切っていい。
そこに悲壮感はなく、むしろ現実を楽しむ姿勢がある。
重圧
故郷(米子市)に帰り父親に独立の報告をした。
父親は地元で小さな設備業を営んでいた。
私が育つプロセスでは、景気のいいときもあったように思うが、
その頃には、既に父親一人で、たまに以前からの付き合いのある知り合いの仕事を受けるくらいであった。
つまり、決して余裕がある状態ではなかった。
父親は特に反対することもなく、「まあ、失敗すれば、自宅がなくなるだけだ。」といって、
自宅を担保に地元の信用金庫から、会社の事業資金として3500万円の融資を引き出してくれた。
父親には、徹底した放任主義で育てられてきた。いつも報告するだけだ。
地元の国立の医学部に進学を決めたときも、「なんだ。東大じゃないのか。」といわれたくらいだ。
ともかくはじめてまとまった事業資金を手にすることができた。
これを見せ金に、国民金融公庫、福岡市の制度資金などで、総額5000万円の用意ができた。
ノンバンクからのマンション融資があったので、28歳にして借金が1億円に達することになる。
失敗すれば、父親をはじめ、多くの人に迷惑をかけることになる。
当時好きだった言葉に「用意周到な楽天家」という言葉がある。
何度もこの言葉に助けられた。
考えられるできる限りのことをやりつくして、あとはくよくよしてもしかたない。
このときも自分にそう言い聞かせたのだが、
事の重大さを自覚するとともに、それまで経験したこともない、なんともいえない重圧が胸にのしかかってきた。
小さな賭け
開業候補地の選定に入った。
とはいえ、なにしろ実績のない若者、そして当時は美容外科の社会的イメージも良いとは言えず、物件の絞込みは難航した。
「包帯をぐるぐる巻きにして出てこられては困る。」
「病院の臭いがするとほかのテナントに迷惑がかかる。」
と、もちろん誤解から来るイメージだ。
そもそも美容外科って何するところだ?それは医者の資格が要るのか?
ほとんど年配の男性が占めるテナントのオーナーには理解できない領域でもあった。
しかし、若い女性のニーズは確実に広がっていた。
このとき心に誓った。
「必ず、美容外科の社会的ステイタスを上げてやる。」
どうしても天神という地名にこだわった。天神といえば九州一の商業の中心地である。
その中で、とうとう一等地の物件を見つけた。
すぐにでも契約したかったが、手元資金は少しでも残したい。テナントを借りて、内装や設備を入れれば、開業後の運転資金は3か月分しかなかったのだ。
既に交渉で、家賃は月90万円のところ72万円まで下がっていた。
私はここで賭けに出た。
「今日の夜11時まで待ちます。持ち帰っていただいて60万円でOKならお電話ください。」
交渉担当者には、明日の朝一に別のテナントで契約することをにおわしていた。
もちろん、そんな話はできていない。
電話帳には、既に交渉中の住所で掲載申し込みを済ませてしまっていたのだ。
夜11時、電話が鳴った。
振り返れば、当時はバブル後の不動産不況のピークだった。物件は借りる側にとってかなり有利に交渉できる状況だったのだ。
不況は絶好の起業の好機だ。
その後、そして今でもこの手は良く使う。
交渉では期限を区切ることが大切だ。
最初の、そして小さな賭けに勝った。
運がすこしずつ味方をしはじめた。
一通の内容証明
開院を目前にして、一通の内容証明が届いた。
「広告を拝見しました。御社の聖心美容外科という名称は、当院の保健所登録名称になっています。直ちに使用を差し控えてください。勧告に従わない場合は...」
そんなばかな。
開業に先立って、保健所に事前相談をすると共に、近隣の美容外科に開院の挨拶に回っていた。
クリニックの通りに面して、2件ならびにAクリニック(仮称)を開業している先生がいた。名前をH氏(仮称)という。
昔、勤務医として福岡院の院長として赴任したときに、副院長として同じ職場にいたが、その後退職し、私に先駆けてまもなく独立した。
役職はともかく、年は私より上だったので、挨拶回りをしたその日も、開業医の先輩として忠告をしてくれた。
「あまり、開業に先立って、クリニック名など言わないほうがいいよ。S美容外科とか、Kクリニックに嫌がらせされるから。」
SとKといえば業界1位、2位のクリニックだ。
そんなクリニックが、できたばかりの聖心美容外科を攻撃するだろうか?信じられなかった。
世の中がそんなに悪意に満ちているとは思えない。
「むしろ相手にしてくれるなら光栄なことです。」
私はそのH先生の忠告を聞き流した。
しかし、彼の忠告は別の形で現実になった。
「勧告に従わない場合は、損害賠償の請求をします。聖心美容外科Aクリニック院長H」
あのH先生からだ。
医療法上、クリニックの登録は開設後1ヶ月以内に行うとなっていた。
あわてて保健所に問い合わせた。
「はい。Aクリニックさんは、数日前名称変更の登録をされまして。聖心美容外科Aクリニックとなりました。」
「おかしいじゃないですか。事前に相談していたのに。」
「はい。私もおかしいとは思っていましたが、手続きを受けない訳にはいきませんので、先方とよく話し合ってください。」
ためしにNTTの番号案内に“聖心美容外科”で問い合わせてみる。
「天神の聖心美容外科で2件見つかりましたが、どちらになされます?聖心美容外科Aクリニックでよろしいですか?」
その後も、我々のクリニックを予約した患者さんが間違えてAクリニックに行き、「あれ、聖心美容外科じゃないですか?」と聞くと受付の女性が、「はい、“聖心美容外科Aクリニック”です。お持ちしておりました。」と対応するという。
無断キャンセルされて手術をしていないはずの患者さんから、手術後のクレームの電話がかかってきて、それに気づくといったこともしばしばあった。
すぐに弁護士に相談し、内容証明を送り返した。開院に前後し、その後何度かやり取りを繰り返した。
弁理士にも問い合わせてみたが、幸い商標登録はまだされていなかった。
ロゴマークと共にサービスマーク登録を申請した。
数ヵ月後、実態を反映して、勝ち目がないと思ったのか、やがて先方が折れた。
しかし、その後も広告表現のパクリなど、彼の嫌がらせは続いた。
あたかもそれが彼のプレゼンスを示す最高の手段であるがごとく。
いつまで続くのだろう。私は思った。
挑発に乗っては負けだ。共倒れしてしまう。
診療理念に掲げた、“美容外科全体のステイタスを上げる”という志を実現するためには、このようなレベルでの戦いを続けているわけにはいかない。
もっと力をつけなければ。。
時は流れ、我々が東京に進出して隆盛を極めているその頃、
彼のクリニックがつぶれたことを風のうわさで聞いた。
思えば、彼は私の可能性と実力を認めて、脅威と感じた最初の人だったのかもしれない。
日本一を目指す
一日でも惜しかった。
29歳となった私は、前のクリニックを退職した2日後、1993年10月16日をはじめてのクリニックの開院日に決めた。
あの独立を決めた電話の日から、わずか5ヵ月後のことだった。
前職の院長に最後の挨拶に行った。
「経験も、お金も、信頼も院長にはかないませんが、一つだけ勝てることがあります。」
「それは私が29歳で、院長の歳まではあと10年あるということです。」
「それまでには、きっと院長を超える日本一のクリニックを作って見せます。」
なんと生意気なことを言う若者だろう。
しかし、院長も負けずに言った。
「君に10年あるとしても、そのときは私にも10年あるのだよ。だから決して追いつくことはできない。」
この時のやり取りは、それからの10年、私に目標を与え、経験することになる多くの試練を乗り越える原動力となった。
工事は本格化していた。
内装の下見では、20数人の工事の人が連日追い込みの作業を進めている。
一人の夢にこれだけ多くの人が動いているという現実を始めて実感した瞬間だ。
そして、ついに、小さいながらも夢見たクリニックが完成した。決して華美ではないが、今までのクリニックのイメージにはない優しさと上品さがある。
43坪のフロアーに、創業スタッフは受付2人、看護婦2人の計4名。
事務室に集合すると、クリニックがやたらと広く感じた。
もしかしたらここは、この天神地区で最も人口密度が低い空間かもしれない。
がらんとした待合室、手術室。ここが患者さんで埋まる日は来るのだろうか?
1日の予定を大学ノートの1行に記入していたスタッフに、見開きのページを1日分として使うように指示した。
スタッフに慣れてもらうのも兼ねて、知り合いの人にモニターとして患者さんになってもらう。
本当の患者さんの予定はいまだ入っていない。
予定表は、見開き白紙のまま、ページだけが進んでいった。
数日後、開院に伴う雑用のあわただしさが去り、再び静かなときを迎えた。
私自身の落ち着きのなさを感じ取ったのか、スタッフの顔にも若干の不安の色が見て取れた。
スタッフを集めて、はじめてのミーティングが開かれた。
これから微力ながらもクリニックの院長としてみんなを率いていかなければならない。
冒頭の挨拶にも自然と力が入る。
「皆さん、私たちの診療理念にもあるように、私たちの商品は医療をベースとしたサービスの提供です。」
「社会のニーズに高い水準で応えることが私たちの使命です。」
「夢を共有して誠心誠意仕事をして得られる喜びを皆さんと共に分かち合いましょう。」
さらに続けた。
「これから先見性と独創性をもって美容外科医療界をリードし、そのステイタスの向上に寄与します。」
静かなクリニックが、さらに静まり返った。
そして、誰ともなく、噴きだして、笑いが広がった。
皆、美容外科医療界のステイタス以前に、日本一若い院長が、日本一を目指して率いるこのクリニックのことが心配だった。
開院して1週間後、はじめての患者さんの予約が入った。
ふくらはぎの脂肪吸引の患者さんだ。
緊張感とともに、皆の活気が戻った。
皆できる限りのサービスを尽くした。
患者さんを無事エレベーターまで送り終えると、自然と患者さんの後姿に感謝の気持ちで手を合わせていた。
十数年たった今でもその患者さんの名前は忘れない。
結局、この月患者さんはこの一人だけだった。
記念すべき最初の月の売り上げは38万円。
通帳の残高はどんどん減っていった。
爪の穴
11月を迎えた。 私は、通勤スタイルを半袖シャツから衣替えすることさえ、すっかり忘れていることに、人の指摘を受けるまで気づかなかった。
ふと、爪に目をやると穴が開いている。
その穴は指10本、すべての爪の付け根に生じ、次第に大きくなってきた。
まるで通帳の残高と反比例するかのように。
たまりかねて皮膚科に相談に行った。
何か悪い病気なのか?皮膚科のドクターも首をひねっている。
あまり見かけない症状だ。大学でも習った覚えがない。
ドクターは医学書を引っ張り出してきて言った。
通常、強いストレスにさらされると円形脱毛の症状などが現れるが、1000人に一人くらいの確率で、頭皮に来ないで、爪に来ると言う。
どちらも角質の形成不全から来る症状だ。
ほっといても命に別状はなさそうだ。もっともこれといって対処方法もない。
一日の診療状況に一喜一憂を繰り返した。3ヵ月後には運転資金は底をつく。そうなれば、ゲームオーバーだ。気丈には振舞っていたが、自覚以上に強いストレスを体は感じていた。 それでも暗中模索で進むしかない。
嵐の中に漕ぎ出した小船のような心境だった。
正しい情報提供
福岡は、全国でも珍しく、地域情報が充実したフリーペーパーが発達していた。
OL向けのオフィス配布雑誌のエルフ、ガリア、アバンティ、主婦層など広いターゲットを狙った家庭配布雑誌のめさーじゅなどが代表的だ。
これらを活用することで自分なりに勝算はあった。
とはいえ、福岡は全国でも有数の美容外科激戦区、地元資本に加え、支店経済といわれるように全国チェーンも軒並み進出しており、その数は30クリニックを超えていた。
地方雑誌は、掲載基準が比較的甘く、雑誌の特性に合わせたきめ細かい紙面対応を行うことで、広告レスポンスの改善余地があると見ていた。
前職に在籍中に一度、本部にその対応の具体的提案をしたことがあった。
しかし、本部からの回答は、「先生は診療に専念してくれればいい」という内容だった。
どうしても自分で試してみたい。開業を決めた理由の一つであった。
例の異業種交流会を主催しているK氏は、我々のクリニックのアカウント(担当窓口)として、昼夜を問わず、相談に乗ってくれた。
後で聞いた話だが、彼の勤める広告代理店の役員会では、私のクリニックとの取引に難色を示していた。資金回収に不安があるとの見解だ。彼は強引に推してしてくれた。
「面白い男だから、賭けてみましょう。だめだったら私が責任を取ります。」
もちろん、当時、平の社員の彼に責任が取れるわけはない。
しかし、取引は始まった。
毎月の広告費用の前払いという異例の条件付きではあったが。
それから、K氏との連日の戦略会議が始まった。
私がレスポンスマーケティングの基礎を学んだ時期だ。
K氏は外回りの営業の合間を見ては、一日に何度もクリニックに訪問してくれた。
スタッフ、患者さんをはじめほとんど女性だけの職場だったので、男の人と話するのは、彼だけのような状態が続いた。クリニックから一歩も外に出ないでひたすら患者さんを待つ私にとって、社会につながる唯一の心の支えだった。
一つの原稿は何度も何度も書き換えられた。クリエイティブ(デザイン)にもこだわった。
費用の割りに手間のかかるクライアントだった。
そしてパートナーのK氏も徹底した顧客主義を通し続けた。
この場合、顧客というのは、広告を発注する私のクリニックでなく、サービスを受ける患者さんのことだ。
患者さんに正しい情報を伝える、いわゆるインフォームドコンセントのコンセプトが我々の発する強いメッセージとなって紙面を飾った。
「水曜日はカウンセリングの日です。我々は正しい情報提供のため、毎週水曜日はすべての手術の手を休め、カウンセリングに専念しています。」実際に手術の手を休めていたのは、水曜日に限らず毎日のように続いていた。
「腫れます、痛みます、その日にデートの予定は入れないでください。」 隣の紙面に大手の美容外科の、腫れない、痛まない、その日からデートも可能、と二重手術の手軽さを謳った誇大広告がコントラストをなしていた。
異例の広告は、賢い消費者に、徐々にではあるが、確実に支持されている手ごたえがあった。
11月の売り上げは、400万に達した。
それでもキャッシュフローのマイナスが解消されるまでには至らなかった。
爪の穴はさらに大きくなり続けた。
舌を噛んで
12月も最初の週が終わろうとしていた頃、K氏から突然、興奮した様子で電話があった。
「今月、めさーじゅ(家庭配布雑誌)の表4のキャンセル枠が2つ出たので、急いで取りましょう。」
表4とは、雑誌の裏表紙で、掲載料も最も高い。それを1ページ丸ごと2回も押さえようというのだ。
当時、美容外科でそのような出稿をするクライアントはいなかった。
これを実行すれば、残り2か月の手元資金は、今月で一気に底を突くことになる。
彼もそれを承知の上での提案だ。
しばらく考えた後、決断した。
このまま手を下さずに、じりじりと資金が底をつくのを待つよりも、思い切って勝負に出よう。
どうせだめなら結論は早いほうがいい。
「生命保険も入ったし、失敗したら、舌を噛んで死のう。」本気でそんなバカなことを考えていた。
広告では、今では当たり前のように思えるが、
「無料カウンセリング」
「明確な料金の表示」
「アフターケアの無料保障」
と、その後、業界の標準となるコンセプトを打ち出していた。
それほど不透明な業界だったのだ。
顧客の視点に立って当たり前のことをまじめにやる。
「用意周到な楽天家であれ」考えられることはすべてやりつくした。
朝出勤するとクリニックの様子がおかしい。
電話が鳴っているのに、誰も出る様子がない。
まだ皆来てないのか。どういうことだ?
貴重な患者さんからの電話を一本も取り逃すまいと、事務室に駆けつけた。
目を疑う風景があった。
なんと、出勤者全員が電話対応に追われて、こちらに目配せしているではないか。
あわてて自ら電話に出た。「は、はい、聖心美容外科の院長、や、山川です。」
慣れないことで少し噛んだ。院長に出られた患者さんも少し当惑している様子だった。
翌日から、スタッフの増員に乗り出した。
手術は夜の12時を超える日が続いた。
月の売り上げは、700万円、1500万円と伸びていった。
開業3ヶ月目にして、ついに立ち上がった。
電話では少し噛んだが、どうやら本格的に舌を噛んで死ぬ必要はなくなったようだ。
快進撃
大晦日は、手術をしながら、スタッフ、患者さんとともに除夜の鐘を聞いた。
年が変わって、1994年。
評判が評判を呼び、快進撃が続いた。
開業4ヶ月目には、地場のクリニックで、当時最も患者を集めていたクリニックの院長から、広告代理店経由ながら名指しでライバル宣言された。
半年後には診療額も3000万円を超え、福岡では、前職の大手クリニックを追い越す勢いとなった。
美容外科経営では、経費に占める広告費の割合が高い。広告を管理し、ノウハウを集積するため、ジェイキューブという有限会社をハウスエージェンシーとして独立させた。後に医療材料の仕入れや人材派遣、事務のアウトソースなども行うことになる。
何の業種にしろ、トップ企業の社会的影響力は強い。
業界のステイタスを上げるという理念の実現のためにも、まずは地域No.1の座を確保しなければならない。
創業の頃、お付き合いのあった経営者に「お兄ちゃん、一番一番とあんまり言うな。2番が一番いいんだ。一番は叩かれる。」
そんなアドバイスをされるくらいだったから、よっぽどしょっていたのだろう。
しかし、そうでもして自分を鼓舞していなければ、気持ちが押しつぶされそうな 出来事が多すぎた。
少々無理しても、背伸びして頑張っていれば、そのうち本当にその背丈に合った力がついてくるものだ。そう信じていた。
招かれざる客
開業して間もないある日、クリニックにいかにも怪しい初老の男性が現れた。
私に面談を希望している。患者さんではなさそうだ。
名刺を見ると、フリーのライターということだが、私に何の用件だろう。
有名な社会誌に紙面を持っているという。
そういえばその雑誌の名前は聞いたことがある。少し前に反美容外科キャンペーンで連載があった。
前にいたクリニックチェーンなど、大手は軒並みその診療姿勢などを攻撃されていた。
業界の黎明期だったので、反省すべき指摘点もあったのだろうが、内部にいた人間としては、あまりにも一面的で行きすぎた報道と感じていたものだ。
いずれにしても、業界のリーダーシップを取って、その社会的ステイタスも上げるんだと気負っていたから、喜んでお話を聞きましょうと招き入れた。
しかし、彼のトーンはそんな甘いものではなかった。
「おたくの患者のクレームが来ています。いろいろ取材して回ってるんですが、おたくは同業の評判も良くないねえ。なんでもやくざがスポンサーについているそうじゃないか。」
私の反応に探りを入れるように、顔を覗き込んでくる。
負けじとこちらも見返すと、顔が少し赤らんでいるし、お酒の臭いもする。
「やくざなんかいませんよ。誰がそんなことを言っているんですか。それにクレームって何ですか。」
私の顔も挑発されて、少し赤らんできたように感じた。
「そうかい?誰か名前はいえないが、確かな筋だ。それに手術の失敗の写真もある。」
そういうと男はおもむろに一枚の写真を取り出してきた。
豊胸手術の脂肪注入で、組織が定着せずに化膿している写真だ。
それを見た瞬間にこの男が、根拠なく、しかし明らかな悪意を持って、やってきたことを悟った。
なぜなら、開業して間もない我々のクリニックでは、そのような大きな手術の患者さんはまだ一例も依頼がなかったからだ。
このような場合、どう対処するのがいいのだろう。
私は、一呼吸置くことにした。
逆に、この男の真意を探る必要があると考え、あえて反論することなく話を進めた。
クリニックの様子を執拗に見渡していた男が切り出した。
「このことを記事にしてもいい。しかし、君もこれから将来のある若者だ。
今度、本を出版する予定がある。正しい美容外科の選び方という本だ。
全国の優良なクリニックを推薦する予定だ。一口、500万円の出版協力をしないか。」
彼の意図がすべて理解できた。
やくざの話で探りをいれたのも、既に同じようなやからの縄張りになっていないかを確認したかったのだろう。
狙いがはっきりしたので、逆に安心した。
「残念ながら、開業したばかりで、そのような余裕はありません。それとその写真、うちの物ではありませんね。」
知り合いの美容外科の開業医にそのようなことがあったことを相談すると
彼はこともなげに言った。
「それは有名なブラックジャーナリストだよ。うちなんかいつも来るよ。」
私は聞いた。
「どうしたらいいんですか?嘘を書かれたらいやじゃないですか。」
お前は、馬鹿正直だねえ。そんな口調で彼は続けた。
「書きたければ、書けばぁ。って言えばいいんだよ。」
妙に気持ちが楽になった。
開業当初は、そのようなやからが、何度か訪れたが、いつも毅然した態度で、お引取りを願った。
逆に弱みを見せて、一度でもつけこまれれば、あとは彼らやくざな連中の術中にはまり、食い物になる。
最初は、恐怖を感じたが、彼らは、表舞台で堂々と接すれば決して手を出してこないことがわかった。
開業していると、これからこんなことが日常的にあるのかと思うと気がめいったが、創業期を過ぎ、力をつけてからは、不思議とそのようなやからは現れなくなった。
2件目のクリニック
開院1周年を迎えた。
この頃には事実上、福岡地区30数クリニックの頂点に立っていた。しかし、決して安定した経営状態ではなかったし、またその状況に満足もしていなかった。一つ目標が達成されると、次の目標に向っていた。
この時も既に広島院の開設の準備に入っていた。2件目のクリニックだ。組織を遠隔操作するのは、今までと違うスキルを必要とされる。福岡から移動なども含め管理がしやすい距離で、ある程度大きな商圏ということで、広島を選んだ。当時の新幹線で1時間20分の距離だ。
以前働いていたクリニックで先輩にあたる人が名古屋にいた。U先生という。私が福岡の院長を任されているときに、全国の拠点のうち、4位、5位の座を競っていた良きライバルでもあり、頼りになる先輩でもあった。
そのU先生が、勤務先のクリニック在職中に問題を起こしていた。彼は、そのクリニックの最古参ということもあり、技術も優れていて、スタッフや後輩の人望も厚かった。しかし、一つ欠点があった。それは、お酒を飲むと人が変わるということだ。ある日、彼は診療が終わって、後輩と名古屋の街に出かけた。飲みが終わって解散した後、事件は起きた。帰宅した後輩の先生のところに警察から電話が入った。U先生が、華やかなネオン街のオフィスビルに侵入し、数フロアに渡ってガラスというというガラスを破壊して歩いたのだ。しかも2棟も。結局、機動隊に取り押さえられて、拘置されたのち、身柄の引き取りに、深夜、後輩の先生が呼ばれたというわけだ。後日、U先生は、医道審議会にかけられたが、辛うじて医師免許の剥奪は免れた。そんなことがあってか、彼は今の職場でやりにくい状況になっていた。そして仕事の意欲も次第に薄れていったのだった。
私は、飛行機で名古屋に向かった。もちろんU先生をスカウトするためだ。通常、医師の世界では、先輩の先生が後輩に雇用されるということは、あまりない。彼の奥さんをまじえた3人での面談で、説得を続けた。彼はもうあまり仕事を一生懸命する意欲がない。趣味のマラソンを中心とした生活がしたいという。私は一緒に仕事をすれば、彼の本来の力を再生できるという自信があった。一緒に働いていた頃は、情熱にあふれ、患者さんにも優しく、憧れの先輩だったからだ。結局彼は、私の熱意と意欲に根負けし、広島院の院長を引き受けてくれることになった。週休3日の条件付きではあったが。
しかし、この選択は、後に私の経営者としての人生を大きく変えていくことになる。良くも、悪くも。。
ともかく、私にとってのはじめてのサテライトクリニック、広島院は、福岡院開業の1年後、1994年11月にオープンした。しかし、その経営基盤は安定したものではなく、華やかできれいだけれども、いつでも壊れてしまいそうな危うさを持っていた。まるで、あのガラスのように。。
U先生という人物
ひとまわりも年上のU先生の加入は業界関係者を驚かせた。
それは同時に、若く頼りない経営者であった私の信頼を高めることにもなった。
その人柄や丁寧な手術は、患者さんからの評価も高く、熱心に働いてくれた。
しかし、その意欲も長くは続かなかった。
上昇志向の強い私に対して、彼はいつもこう言った。
「先生、もう十分良くやっているんだから、そんなに頑張らなくてもいいじゃないですか。」
「先生がいっぱい給料をくれるから、僕はそんなに働かなくてもいいんですよ。」
皮肉のようにそう続けた。
年下の医師に雇用されている現実は、やはり不自然であったのかもしれない。
週休3日で約束した雇用契約も、週休4日へと変更を余儀なくされた。
彼は、自治医大を卒業した後、僻地医療に従事して、その後、美容外科医として転身していた。
僻地医療と美容外科、医療の中でも対極をなすカテゴリーだ。
そのプロセスで何があったかについて、彼は多くを語ろうとしない。
しかし、空手に心得のある彼は、例の事件以前にも、お酒の席でやくざとけんかをし、“かたわ”にしたことがあると、私やスタッフ相手に、しばしばその武勇伝を披露していた。それが事実かどうかはわからない。
ただ、右足のくるぶしにはそのときにできたという傷跡が痛々しく残っていた。
彼は、その怪我のリハビリが高じて、マラソンの魅力に取り付かれたという。
タイムもセミプロ級で、国際大会にも度々出場していた。
一度、朝早くから大濠公園にトレーニングに付き合ったことがあるが、短時間でもとてもついていけるスピードではなかった。
「マラソンで極限状態になると、ランナーズハイといって、脳から麻薬が出るんですよ。」彼は言った。
彼はまた、文明社会をひどく嫌っていた。週4日の休みには、奥さんと沖縄の離れ小島で過ごすことが多かった。
その島に最近、電話線が引かれたことをひどく憤っていた。
TVや車はもちろんのこと、その頃普及しだしたパソコンにも全く興味を示さなかった。
特に携帯電話の電子音には、異常と思えるほどの不快感を示していた。
福岡に赴任したとき、彼は奥さんと誓った。お酒はビール2本まで。クリニックの飲み会でも彼はこの約束をかたくなに守った。
いつもは冗談も多い、明るい先生ではあったが、時々うつろな表情をしている時があった。
どうやら精神安定剤を飲んでいるようだ。
U先生の穏やかな人柄は、夢を実現するためには、自分にも周りの人にも厳しいことを要求する当時の私とは対照的だった。
スタッフの中には、そのような優しいU先生に心理的に依存する者もみられ始めた。
一度、彼がスタッフに安定剤を勧めているのを見て、ひどく注意したことがある。
私の心配をよそに、彼の薬の量は、徐々に増えていった。
それはまるで現実社会から逃れるかのようだった。
時代のツール
1996年になった。
WINDOWS95の登場により、世界は本格的なインターネットの時代を迎えていた。
2つのクリニックを運営することにより、私は稚拙ながらマネージメントの能力を高めていった。
クリニックの顧客情報を管理するリレーショナルデータベースのシステムをmicrosoft accessで自作し、この設計思想は、後にプロフィールドという会社で、ACUSISという製品となり、クリニック統合運営システムとして、多くの美容外科に採用される標準プラットホームとなる。(現在では日本のみならず中国での導入も決まっている。)
広島院は難なく軌道に乗った。3日に一度は広島への往復の生活となり、私は忙しさを極めた。
ローカルながらもテレビのレギュラー番組の出演も始まった。
広告のロゴマークにあこがれて入職を希望してきた新人ドクターNを迎え、クリニックは、私を含め3人の常勤医体制となった。
程なく、広島院も地域一番院となり、関西を除く西日本地区では、事実上、トップシェアのクリニックとなった。
傍から見れば、まさに順風満帆といった状態であろう。
しかし、私の日々の診療に対する不安感は消えなかった。
診療規模が大きくなっても、入りと出の金額が大きくなっただけで、入りがとまれば余裕資金は3か月分という状況には変わりがなかった。
いわゆる自転車操業だ。
いつこの状態が暗転するかもわからない。
その予感は的中した。
9月に入り、業界最大手となったKクリニックで脂肪吸引手術の死亡事故が起きた。
Body Design Clinic というコンセプトを打ち出して、脂肪吸引を診療の中心として位置づけていた当院にとって、この事故は致命的であった。
他院の事故にもかかわらず、10月に入り、当院の脂肪吸引の手術は一件もなくなった。
開業の立ち上がり以降、初めての単月赤字を経験した。
11月に入っても状況は好転せず、赤字は続いた。
診療の激減と共に、時間をもてあます日々が続いた。
たまりかねて、新人ドクターのN先生が、相談してきた。
「先生、することがないので、ホームページでも作ろうと思いますがいいですか?」
ドクターに仕事が与えられないのを心苦しく思った私はそれを推奨した。
元々、おたく系の入った先生だったので、彼の作業は順調に進み、当院にとって記念すべき初めてのホームページが完成した。
そのことにどのような意義があるか、その時点では良くわからなかった。
今では考えられないことだが、ヤフーの検索結果で表示される全国の美容外科のホームページは、我々のものを含めて4件だけだった。
時代の空気を読み、その時代のツールを使いこなすスキルが、もしかしたら私の最も重要な成長要因かも知れない。最近になってそう思う。
その年の暮れ、私は例の異業種交流会で、福岡発のインターネットコンサルティングで実績を上げていたペンシルという会社に出会った。
美容外科のステイタスの向上を理念に上げていた私は、それを実践するため美容外科の正しい情報を発信するホームページbiyouWEBを構想し、立ち上げた。
このサイトは美容外科のいい情報も、そして悪い情報も含めて開示し、業界の理解を深めようというもので、競合する同業他社へのリンクも盛り込んだ。後にこのサイトは、全国の574院が参加する美容外科最大のポータルサイトとなった。
インターネットの登場は、後に美容外科のビジネスモデルを大きく変えることになり、聖心美容外科はその先頭を走り業界をリードすることになる。
もちろん、この時点では、そのことを知る由もない。
スキンケアクリニック構想
診療の暇な時期を利用して、気分転換にバリ島に行くことにした。開業以来、初めての休暇だ。
観光目的でいくつかの寺院を歩いて回った。
そこで、3体の不思議な仏像をみた。
中央に大きな仏像、両サイドにそれに従うように小さな2体の仏像がたっている。
ガイドによると中央が破壊の神様。両サイドに立っているのがそれぞれ、創造と守護の神様だという。
バリ島では、破壊の神様が一番偉いそうだ。
私の常識では、クリエイティブさが一番と思っていたので、目からうろこが落ちる思いがした。
創造は、破壊の上に成り立っているのだ。
1997年。
年が変わっても状況は好転しなかった。
1月も赤字が続いた。2月になって、予約状況に若干の回復の兆しが見えてきた。人々の活動性が増す春になれば毎年、忙しくなってくる。本格回復は目前だ。
暇だからといって、何もせずに手をこまねいているわけにもいかない。サービス改善のため、外部から接遇講師を招いたり、早朝ミーティングを定例化し、マニュアルの整備を進めていったのもこの時期だ。
低調な診療の中で、わきが治療だけは堅調に伸びていた。
最新の手術方法を導入したためだ。
しかし、脂肪吸引をはじめとする美容外科の患者層と、わきが治療の患者層は微妙に異なっており、それはマーケティング上問題だった。どちらに焦点を絞るべきか。
私は悩んだ。
同一ブランドでは限界がある。わきが治療は別のブランドを立ち上げよう。
美容外科の階下のフロアを新たに借り、スキンケアクリニックというブランドを別に作ることにした。
今でこそ、スキンケアを中心とした美容クリニックは乱立しているが、当時はそのようなコンセプトはまだ珍しかった。
早速、構想を説明するために、いつもの沖縄旅行から戻ってきたU先生の自宅に訪問した。
U先生は沖縄土産の泡盛を取り出してきた。。
破壊の神様
この話は、長く封印してきた。しかし、語るのにもう十分時間がたっただろう。
忘れもしない1997年2月20日、人生で一番長い夜の出来事。。
やはりU先生は難色を示した。
「もう十分じゃないですか。」
しかし私は、諦めなかった。
新しい世界を切り開いていきたかったし、まだ見ぬ未来を創造してみたかった。
必死の説得に根負けしたのか、最後には、「わかりました。先生がそこまでおっしゃるなら協力しましょう。」
その言葉を引き出せて、ほっとした。
陶芸を趣味とする奥さんの手作りのコップに泡盛が注がれた。
新しいクリニックの誕生を祝って乾杯だ。
そういえば最近は、お互いに福岡と広島の両クリニックを、別の日に担当し、すれ違いの生活を送っている。
こうして、ひざを突き合わせて話をするのもずいぶん久しぶりだ。
苦労してきた日々も、U先生お得意の冗談を交えて、明るく振り返ることができる。
乾杯だけのつもりだったが、今日は特別だ。
わかりあえた安堵感から、次第に杯は進んでいった。
深夜、12時を過ぎた頃、突然私の胸ポケットから、携帯の着信音が鳴り響いた。
こんな時間に誰だろう?
と、次の瞬間。
「せ。先生は。。」といううなり声にも似たU先生の叫びが聞こえた。
顔が別人のように豹変し、体全体に緊張がみなぎって、仁王立ちになっている。
その小刻みに震える、しかし力強い手には、割れた陶器のコップを握り締めている。
なんだか、とてつもない恐怖が襲ってきた。
ふと足元に目を落とすと、あたりがおびただしい量の血の海になっている。そして急速にその範囲を広げている。誰の血だろう?
一瞬なにが起きたかを理解することができなかった。
私の左手の甲が血しぶきを上げながらぱっくりと割れて、かろうじて皮一枚でぶら下がっている。
奥さんが救急車を呼んだ。激しい痛みの中で、私は2本の主要な血管を右手で押さえて、血液が失われるのを防いだ。
遠のいていく意識の中で、今起きたことを必死に理解しようとした。
私の携帯電話の着信音に反応したU先生が、それを叩き壊そうとコップで殴りかかり、それを反射的によけようとした私の頭を直撃し、さらに頭をかばった私の手首を砕いたのだ。
U先生は部屋の隅でうずくまって低くうなり声を上げている。動物のそれだ。
常人の目ではなく、別人格の仮面をかぶっているようだ。表情はない。
救急車で運ばれる私は、朦朧としながら奥さんに頼んだ。
「明日、福岡院で大きな手術の予約が3件入っています。U先生に代診をお願いしてください。。」
クリニックの評判を考え、警察への届けは行わなかった。
次の日、U先生が現れることはなかった。入院先の病院に1本の電話で医者を辞める意思を伝えられた。
新人の先生も、一人の診療に自信がないということで、去っていった。
私を含め、クリニックにドクターは一人もいなくなった。
我々のクリニックに破壊の神様が降臨した。それは抗うことのできない絶大な力だった。
ミラクルシフト
応急処置が終わった後、再建手術までは2日間待たされた。
一日でも早く復帰したい。気持ちはあせるばかりだった。
手首には、5本の指それぞれに伸腱と屈腱の2つ、計10本の腱組織があり、指の動きをコントロールしている。
診断によるとそのうち6本が切断されているというのだ。
美容外科医にとっては致命的だ。
元通り、動くようになるのだろうか?
「完全とは行かないが、1ヶ月程度で腱はつくでしょう。後はリハビリ次第です。」
手術が終わったその日の深夜、当時2社お願いしていた広告代理店同士がもめて、契約条件の変更を求めてやってきた。
もし、復帰しても、ドクターは私一人、今の広告費を払い続けても回収しきれないと考えた私は、両社に広告費の3割削減のお願いをしていたのだ。
小さな代理店にとってはそれは死活問題だ。面会時間の8時はとっくに過ぎている。
麻酔や痛み止めの影響で猛烈に睡魔が襲ってくる。
残されたスタッフは、事後の対応に追われていた。既に手術予約を入れて下さっている患者さんに、当面手術が出来なくなった旨を伝えなければならない。
ドクターたちがいなくなったことで、スタッフたちもこのクリニックの存続を危ぶんでいた。
私の復帰を待たずに半数近くが、さまざまな事情を言って、ひとり、ふたり、そして次々と辞めていった。
春が近づいて、順調に予約も入りだし、本格回復を確信していた矢先の出来事だった。
試算すると、1ヶ月で5000万円の損害に相当した。
いい機会かもしれない。どん底の中で、前向きに考えることにした。
いや、それしか選択肢がなかった。
一生の中でこんなにゆっくりと考える時間を与えられることは、めったにないことだ。
復帰後の策を練った。
入院先に母親がやってきた。
今回のことを、かなり口うるさく言われるんだろうなと覚悟していたが、
私が精神的ダメージを受けていることを案じてか、
その日は、拍子抜けするくらい優しく穏やかな口調で言った。
「これからのことだけど、怪我が回復したら、どうするつもり?3つ選択肢があると思うんだけど。」
「広島院を閉じて、福岡院だけ残すか、その逆で広島院だけ残すか、それともクリニックをたたんで勤務医に戻るか。」
私は、迷わず答えた。
「そのどれでもないよ。両方やるんだよ。」
「両方やるって?」
聞き分けのない駄々っ子のように思われたかもしれない。
彼女は驚きと疑念の表情を隠さなかった。
「1週間を7日と考えないで、11日と考えるんだ。」
病室の枕元で考えたシフト表を取り出して私は説明をし始めた。
「まず、朝10時から夜7時までの診療を、朝9時から昼の2時までと、4時から夜の9時までに分けるんだ。新幹線を使って間2時間で福岡から広島へ移動する。翌日はその逆だ。広島から入って福岡へ。11日目に昼から半日の休みと次の日午前を休むんだ。このサイクルを繰り返す。これで休診日を増やさないで今まで3人でやっていたシフトをこなせる。」
母親は黙り込んでしまった。
とにかくこのミラクルシフトは、復帰後1年間、1日の休みを取ることもなく繰り返されることになる。
一人でまわしたその1年の年間診療額は、3人でやっていた事件前の実績を上回るというおまけつきで。
夢に向かって走り続けていれば、心は決して傷つかない。
独走時代
今回の事件は、起きるべきして起きたのかもしれない。
自己実現という欲求を満たすことが、周りの人たちの共感を得ることなく、強引に推し進められて来たことに対する、反動だったのかもしれない。
私は、後先や周りを見る余裕もなく夢を追いかけて独走していたのだ。
復帰後、例のミラクルシフトを発表すると、残っていた半数のスタッフたちも程なく辞めていった。
スタッフは、前の日は9時までの勤務の後、後片づけをし、翌日は朝9時の診療に間に合うように準備をしなければならない。
慣れ親しんできた習慣を改めることを苦痛を感じる人は多い。そんなことにも配慮が及ばないリーダーだった。
結果的にこの時期に全スタッフが一新されたことになる。
ついてこれる人だけついてくればいい、強がりでなく心底そう思っていた。
その考えが、次のステージへのレベルアップを妨げている要因になっていることを悟るには、もう少し時間が必要だった。
ある日、広島院で12時過ぎに、二重の手術をしてほしいという患者さんが飛び込みでやってきた。
どうしてもこの日に受けて帰りたいという。
移動の時間は迫っている。しかし、他に2名の手術待ちの患者さんと別にカウンセリング待ちの患者さんもいる。
「先生、無理です。間に合いません。」看護婦が言った。
「いや、できる。無理かどうかは、俺が判断する。とにかく準備してくれ。」
手術が終わると同時に、受付に捕まえさせていたタクシーに飛び乗る。
「新幹線口まで行ってください、2時の新幹線に乗ります。」
運転手は時計を一瞥して言った。
「お客さん、そりゃぁ無理です。間に合いませんよ。」
「いや、無理でもいいから、とにかく急いでください。」
駅に着くとおつりも受け取らずに、ホームを全力で駆け上がった。
発射のベルの鳴り響く中、列車に飛び込んだ。
息絶え絶えに思った。「なんで皆、俺に無理って言うんだろう。。」
その当時、博多駅と広島駅では、ホームを駆ける私の姿は有名だった。
「山川さん。昨日も走ってましたね。」駅でイベントをしている人に言われた。
戦っている相手は自分自身だった。
復活を信じているのも自分一人だったかもしれない。
まさに、独走時代だった。
インターネットとの出会い
退職した新人ドクターが趣味で残したホームページ。
リニューアルの必要を感じたのでK氏に相談したところ「山川さんがやればいいじゃない。できるよ。」といわれたので、とりあえずHTMLの書き方の本を買ってきて、製作してみることにした。
photo shop なども使っているうちに、創作の楽しさも感じてきた。
何度か作り変えた後、自己満足ではあるが、納得できるものが完成した。
1997年の当時は、インターネットは一部のマニアのツールで男性のユーザーがほとんどだった。
日本でヤフーのサービスが始まってはいたが、Googleは会社すらまだ存在していなかった。接続はダイヤルアップが主流で、ソフトバンクはまだ東証一部に上場していなかった。楽天の前身になる楽天市場のサービスが始まったのがこの年で、創業間もないホリエモン(当時はまだオンザエッジ)はWEB製作メインの零細会社で、サーバーエージェントの誕生は、その1年後である。
ホームページで少しでも集客する仕組みは出来ないかと、実験的にサイト内に、患者さんからの問い合わせにドクターが24時間以内に回答するという業界初のコンセプトである“クイックレスポンスサービス24”(のちにサイバーカウンセリングシステムと発展する)を開始した。
1998年になると、月に2、3件程度だが、ぽつぽつとこのサービスに対するメールが来るようになってきた。
患者さんと何度かメール相談を繰り返した後に、初めてインターネット経由での来院につながった。
驚いたことに、来院された患者さんは、初対面にもかかわらず、既に強力な信頼関係が確立しており、すぐに手術を受けて帰っていった。
この出来事に私は衝撃を受けた。
これから、インターネットで美容外科運営の仕組みが変わる。
開業以来、長年模索していた、「テレビや雑誌に代わるコストのかからない集客の仕組み」というテーマの答えがついに見つかったのだ。
このテーマは、例の稚拙な事業計画にも盛り込んでいた。
興奮が抑えられなかった。
「インターネットがその答えだ。」
情報量、匿名性、双方向性、
知れば知るほど、インターネットは美容外科と患者さんを結ぶ最適なツールだった。
その後、インターネットをクリニック運営の最重要戦略として位置づけた私は、プロの製作による本格的なホームページの量産体制に入ることになる。
出来事の意味
とにかくその1年は、2つのクリニックのすべてを自分で切り回さなければいけない状況が続いた。
マンションのベランダにはゴミ袋が山積みになり、自動車免許は誕生日を過ぎても更新されずに失効した。
仕事以外のことは考えられなかった。
復活をかけて、もうこれ以上はどう考えても頑張りようがないと思えるくらいの極限まで走り続けた。
その結果、事件前の実績を超える成績を収めることが出来た。
その奇跡的な復活に、一時は見放された、周囲の目も変わりだした。
新しいドクターをはじめとする協力者も徐々に増えてきた。
このことは、自分の潜在的な力を自覚することになり、大きな自信へとつながった。
しかし、同時に自分一人でできることの限界を感じることにもなる。
これから今より少しでも大きな仕事ができるとしたら、それは誰かの力に他ならない。
人に任せることが出来ない。
なんでも自分でやらないと気がすまない。
自分でやってしまうのが一番効率がいい。
といったそれまでのパラダイムが大きく変わろうとしていた。
もし、自分が倒れることがあっても、存続できる組織を作らなければならない。
超音波脂肪吸引という新技術を柱に美容外科部門を強化するとともに、診療チャンネルの多様化に取り組んだ。
自然界でもビジネスの世界でも、最後に生き残るのは、最も強いものや最も賢いものではない。
環境の変化に柔軟に対応できるものが生き残るのだ。
適者生存とは、多様性と淘汰の歴史である。
頓挫していたスキンケアクリニックの新設も構想に遅れること1年で実現した。狙い通りわきが治療の患者さんは、多いときは1日12人に達するという盛況ぶりとなった。この部門はその後もピーリングブーム、レーザー脱毛ブームに乗り、大きな診療の柱を形成していった。
多チャンネル化の一つとして取り入れていた審美歯科診療も、その後独立部門となり、
聖心ブランドは、聖心美容外科、聖心スキンケアクリニック、聖心ティースコンシャスクリニックという3部門に広がっていた。
私にとって、生産能力の高い医師から、医師の資格を持った事業家へとアイデンティティーと可能性を広げていった時代だった。
出来事はもともと意味を持って生じるのではない。その意味を選択するのは自分自身だ。出来事はコントロールできないが、その意味づけはコントロールできる。
誰かに手を切られたせいでその後の人生がだめになったと解釈すれば、その通りの人生が待っているし、誰かに手を切られたがそのおかげで自分で出来る限界を知って本当のリーダーシップを学んだと解釈すれば、その後の人生に役立つ大きな成果をもたらしてくれる。
起きた出来事への意味づけが人生の質を決める。
経営をしていれば、人、金、物にまつわる多くのネガティブに思える出来事も次々と生じてくる。
大切なのはそこから何に気づき、何を学ぶかだ。
学んだ結果により、考え方や哲学が更新され、行動が変わっていく。
その行動の積み重ねが、時間軸を経て、成果、その後の未来を決定付けることになる。
人生で最悪に思える出来事は、その後の人生の最良のきっかけになっていることが多い。
(創業物語 完)
創業物語 あとがき
21回にわたり、1993年の創業から東京に進出する前の約5年間の印象的だった出来事をノンフィクションでつづっていきました。
創業時代のエピソードは、物語にも登場した友人のこちらのサイトにも紹介されています。
これから起業する人や、会社を大きくしていこうと夢に燃えている人、人生最悪の不幸と思えるような壁にぶち当たっている人たちの参考材料になればと思い連載していきました。
こうやって振り返ってみると、つらかった出来事も、時間が経てば、いいネタ作りだったなと思えるから不思議です。
物語はまだ志半ばで終わっています。その後も、まだまだ驚くような予期せぬ出来事が起こります。
でも、それを紹介するには、まだ十分時間が経っていないので、少しリアルすぎるかなと思うのです。
機会があればまた、続編を書いて見ます。
どうして、こんなに次々と事件が起こるかと言うと、自ら変化を求める性格だからと思うのです。
状況が変化しなければ、自ら状況を変えていきます。
CHANGEのGの文字から、trouble(困難)のTの文字を取るとCHANCEになります。
新しい経験をして、それを乗り越える事によって、自らの成長の機会を得たい。
ですから、あえて変化の起きるだろう環境に身を投じてしまうのです。
安定のニーズより、成長のニーズのほうが強いようです。
その時々の成長の度合いにあった若干負荷のかかるストレッチが必要です。
先の事業売却や、中国ビジネスへの新たなチャレンジにはそういった意味があります。
いつも自分に言い聞かせる言葉があります。
「人生に失敗の経験はない。あるのは成功の経験と学習の経験のみだ。」
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